赤毛のアスカさん/102
目が覚めて、しばらくアスカは闇を凝視していた。ああ、眠っちゃったんだ。そう思ったところまでは良かった。ふいに、いつにない異常さを感じたアスカは何かしらと薄暗い天井を見つめる。アスカの部屋にある唯一の、ベッド際にある窓を覆うカーテンは昼間のまま開け放たれていたため、月明かりが神々しく注ぎ込まれていた。その明るさが異常さなのだろうかと考えたまま、アスカは真っ白い天井を見つめ続ける。何をしていたんだっけ?光が風に揺れるのを眺めていたのだと思い出すなり、アスカは一人でそうしていたのではなかったことにはっとなった。慌てて隣りを見るなり、身を引いてベッドから落っこちるという不幸に見舞われた。
「いった・・・」
打ち付けた背中をさすりながら起き上がったアスカは何てことだろうと痛みに耐えながら考えていた。まさか一緒に眠ってしまうなんて、とんでもない話だ。まさか眠りに落ちるほど、カヲルの隣りでリラックス出来るなんて、考えもしなかった。それにしてもまあ、恋人でもない男の子と同じベッドで眠ったなんてこれはとんでもない話だ!すっかり焦ったアスカはでも、何にもなかったんだと自分に言い聞かせ、落ち着こうとした。というか、落ち着いてはいた。ただ問題はもうすっかり暗くなっているという点だった。時計を見ればすでに七時過ぎ。加持家の食卓はとっくに始まっている時間帯である。その時間に二人そろっていないだけじゃなく、シンジとレイは二人が部屋にいるのを知っているはずだ。どうして起こしに来てくれなかったんだろうとアスカは訝った。
それにしてもカヲルはよくこんな状況で眠っていられるものだと自分のことを棚にあげてアスカは思った。そろそろ起きてくれなくちゃ困るというわけだ。ミサトが呼びにきたことなど知らないアスカは早いところ、どうにかしなくちゃいけないと考えていた。カヲルが頭を打って気を失ってしまったので、様子を伺っていたとでも言ってみようか?うつらうつらしていたらそのうちに眠ってしまったのだといえば、納得してくれるものなのかまでは検討がつかなかった。これこそ作家の腕の見せ所だというのに、アスカはちょうど良い言い訳を思いつけずにいた。
光なんか、カヲルに自慢しなければ良かった。一人だけの楽しみにしておけば良かった、アスカがそう後悔しているところで物音が聞こえ、はっと振り返る。ミサトがそっと覗いていたのだ。さっきからアスカとカヲルの様子を見るために何度か足を運んでいたのだ。まさか二人そろって眠っているなんて加持にとても言えなかったミサトは、またつまらない喧嘩をしている真っ最中なので仲直りするまで部屋から出ないように言いつけてやったと何とか切り抜けたのだった。
ミサトの顔を見たアスカは、何とも言えないほどほっとした顔をする。立ち上がって、すぐさまミサトのもとに駆けつけると、ミサトはアスカを連れて自分の部屋に入った。こうしたことはちゃんとしておかなくちゃ、とミサトは思ったのだった。
子供たちが仲良くしてくれる分にはもちろん問題ない。それは歓迎すべきことだし、むしろそうしてくれるからこそ大人たちも楽しくなれるというものだ。大人はいつだって子供たちの幸福を一心に願っているものなのだから。でも、一概に幸福というものを一方的な権利だと思い込んではいけない。幸せになるにも、自制すべきことがあるし、やってはいけないこともある。善悪の基準があるからこそ、幸せは成り立つものだった。
「ぐっすり眠ってたみたいね」とミサトは話を始めた。アスカは恥ずかしそうに頷いた。
「・・・気づいたら眠ってたみたい」
「加持には、シンジくんにもレイちゃんにもリツコにもだけど、あなたたちはまた喧嘩してて仲直りするまで部屋から出るなって言ったことになってるわ」
ミサトが説明すると、リツコが来てるんだと思ったアスカはわびしげに頷いた。
「で、どういうことかしら?一緒に眠ってたなんて、その辺のいきさつをお母さんに説明して欲しいわね」
陽気を装って言いながら、ミサトは、母親ってのはこんなに嫌なものなのだろうかと初めて感じていた。いくら陽気ぶってみたとは言っても、自分がアスカを疑っているみたいで、そういう風にアスカに受け止められているのではないかと思うと、またつらかった。いっそ放っておいてあげた方が良かったのではないかとも思った。
アスカは、素直にミサトに説明した。天井に映る光がすごくきれいなのをカヲルに見せたんだということを。そして、二人で眺めているうちにいつの間にか眠ってしまったのだということを。だが、その説明には肝心な部分が抜けていた。どうして、アスカがカヲルを自分の部屋に連れて行ったりなんかしたかということだった。普段ならば、アスカは絶対にそうした軽率なことはしない。本が必要だったら、アスカは本を自分の部屋に取りに行くだけにしたはずだ。持って来た本をリビングで二人で見れば良いだけの話だ。普段のアスカにはそうした分別があった。その点を説明するにあたって、アスカはとうとうレイとシンジのことを打ち明けなくてはならなくなってしまった。
「お願いだから、誰にも言わないで」という前置きをして。
レイがシンジに片思いしているということ、そしてアスカは何とか二人をくっつけてあげたいと願っていることを、ミサトに事細かに説明した。シンジだってレイのことを嫌ってはいないはずだとか、レイとシンジを二人っきりにしたいがために、アスカはカヲルを連れて部屋に引っ込んだこと。三十分ほどしたら戻るつもりだったのに、眠ってしまったなどと。それを聞いたミサトは呆気にとられていた。まさか、そんな恋愛模様が繰り広げられているなんて知りもしなかったのだ。それにしたって、ミサトは我が息子ながらシンジが少し冴えなくてあまり頼りがいがなさそうなのはわきまえていた。そんな息子に、お嫁さんのきてがあるんだろうかとも心配していた。そのシンジを、好きになってくれる女の子がいたとは何たる喜びだろう。それも、アスカの親友がシンジに片思いしていたとは。母親として過度な心配をしていただけに、ミサトの喜びはひとしおだった。
「何でもっと早く教えてくれなかったの!わたしったら、全然知らなかったわ!そういうことだったら、アスカ、お願いね。どうか、お願いだからレイちゃんとシンジをくっつけてあげて!ずっと心配してたのよ。シンちゃんはああいう性格でしょ?女の子に自分から話しかけるような積極性もないし、引っ込み思案だし、この競争社会じゃ一生結婚なんか出来ないんじゃないかっていつも心配だったけど、安心したわ!あー、良かった。本当に良かったわ、ありがとう、あなたは天使だわ!」と感激して興奮したミサトはアスカを強く抱きしめた。まさかこんなに喜ばれるなんて思わなかったアスカは恥ずかしそうに頷いた。
「しっかしまあ、レイちゃんがねえ。まさかシンジを好きだったなんて・・・。わたしも張り切って協力しなくっちゃ。あなたがそんな努力してくれてたなんてちっとも知らなかったわ」
すっかり舞い上がったミサトはアスカの頬に三度もキスをした。アスカは、そんなミサトの無条件なまでの幸せそうな姿に、つかの間シンジに嫉妬した。ここまでシンジのために喜んでくれる人がいるなんて、羨ましかったのだ。もし母が生きていてくれた、自分の婚約なり結婚なりをこんな風に喜んでくれたのかもしれない。でも、その母はもう生きてはいなかった。
「さあさ、おなかすいたでしょ?ご飯食べなさいね。でもあんまり二人で眠るのはやめた方が良いかもしれないわね。見つかったら、渚くん加持に殺されるわ」とミサトは笑いながら言った。ミサトにとってはもはや笑い事でしかなかった。
「ご飯、シンちゃんに用意するよう言うから、あなたは渚くんを起こして降りてらっしゃい。その代わり、ちゃんと喧嘩して仲直りしたことにすんのよ」
ミサトはアスカにそう命じると、また調子はずれな鼻歌を歌いながら階下に下りていった。突然闇の中独りぼっちになったアスカは、ミサトに抱きしめられた暖かさを思いながら自分の部屋に戻って行った。現実はあまりにもたくさんの感情の波から出来ている。ミサトに抱きしめられた腕の強さも、母親的ぬくもりも、あるいはミサトの屈託のない喜びも、それは自分に対して与えられないと分かっているだけの本物の家族の愛情も。アスカはドアノブに手をかけたまま、少しの間じっとしていた。こうした感情をやり過ごすには、孤児院を思い出すのが一番良かった。隣りのベッドの舌ったらずな女の子。あの子はどうなったんだろう?孤児院はそう簡単に何も変わったりはしない。あそこにはいつも溢れんばかりの孤児がいた。ああした孤児たちはみんな一様に、ミサトのような優しい母親の愛情を渇望しているのだ。
思い切って部屋を開けると、暗闇の中に新たな問題が横たわっていた。ミサトが一体何のため、アスカにああしたことを言ったのかは分かっていた。この年頃の男女が同じベッドで眠ってしまっていたら、ミサトのような見方をして心配がるのが普通だ。もちろん、本人たちにそうしたつもりはなくても、周囲はあらぬ見方をするようになってしまうものなのだろう。でも、とアスカは思った。カヲルはいつしかアスカにとって、なくてはならない存在だった。喧嘩した一ヶ月がどんなに長かったことか。それにカヲルは、いつの間にか必要以上にアスカの生活に入り込んでいた。レイ同様、かけがえのない友達だった。そんな潔白な自分たちの関係を恋愛に結び付けて考えられるなんて、アスカは周囲の一方的な物の見方に少しばかり傷ついた。でも、そうした見方は彼等がそれだけ大人になったということを示してもいた。つまり、それだけの責任感を要求されるだけの年になっているということだ。
カヲルはいまだ眠っていた。アスカは、静かな部屋で月明かりを頼りにしばらくカヲルの寝顔を眺めていた。気持ち良さそうに眠るカヲルの姿に、つかの間の安堵を覚える。カヲルは、ミサトが自分たちをどんな風に思ったかなんて知らない。だから、カヲルには知らないままでいて欲しかった。今まで同様の関係でいるには、知らない方が良いに決まっている。だからアスカは座り込むなり、カヲルの頬をぎゅっとつねった。夢を見たのか、突然痛々しいやり方で現実に引き戻されたカヲルはぎょっとして起き上がった。それから、その原因らしいアスカを、幽霊か何かのように見つめる。
「・・・あれ、惣流さん?」とカヲルは聞いた。
「おはよう」とアスカは言ってやった。ああ、とカヲルは思った。いつの間にか眠ってたんだっけ。でも、先に眠ったのはアスカだ。カヲルは、アスカと一緒になってぼんやり光を眺めていた。そしたら、気づけばアスカが眠っていたのだ。起こすのも忍びないし、とか何とか色々考えているうちに自分まで眠ってしまったというわけだった。ああ、アスカの部屋だったんだとカヲルは一気に現実を見た思いだった。
「ずいぶん眠ったんだね。もう真っ暗だ」とカヲルは相変わらず少し眠そうな口調で言ってみた。眠ってしまった気まずさを何とか紛らわせたかったのだ。だが、アスカはそれには答えずに、さっきミサトに言われたことを繰り返した。
「あたしたち、喧嘩して仲直りするまで部屋まで出てくるなって言われたことになってるの。たった今仲直りしたのよ。だから部屋から出れるわ」
「・・・何の話だい?」
眠ってる間に何か起こったんだろうかと訝ったカヲルは聞いた。どうして分からないんだろうとばかりに、いらいらした口調でアスカは説明する。
「だから、・・・分かるでしょ。いちいち聞かないで、喧嘩して仲直りしたんだって口裏合わせといてくれれば良いの!」と面倒になりながら、やけっぱちな言い方になってしまった。カヲルもその意味を察したので、頷いた。確かに年頃の男女が一緒に眠っていたなんていうのはきっと軽く人に言えるものではないんだろう――本人たちにどんな気がなかったとしても、実際に何も起こっていなくても。
「今回はすぐに仲直り出来て良かったよ」とカヲルは冗談めかして言ってみたものの、アスカは笑わなかった。カヲルはアスカが何を考えているか、うすうす察していたので、この緊張感を少しでも早く何とかしたかったのだ。月明かりがそんな二人を神々しく照らし出していた。その明るさのせいで、お互いの表情が光の下にいるように暴かれてしまうことが、やりきれずにいた。せめて、見えないほどの暗闇の中でだったら、二人はもっとお互いをうまくだませたのかもしれない。そんなことを考えた瞬間、アスカがぱっと顔を上げてカヲルを見つめた。光に照らし出されたアスカの真剣な表情は息を飲むほどに美しかった。青い目はまっすぐにカヲルを見つめ、かたちの良いほんのり赤く色づいた唇が少しだけ開いていた。こわばっていた表情は、おそらく周囲の重圧をかけられたままの意味で解釈したアスカなりの精一杯の誠意なのだろう。時間が止まったようなその沈黙の中、カヲルは目を反らすことさえも忘れて、アスカのこの世のものとは思えないほどの完璧な美しさに見入っていた。
「あたしたち、良い友達よね?」
アスカの欠点のない完全な美しさを前にそう聞かれても、カヲルは何一つ答えられなかった。

