赤毛のアスカさん/101
やっと家に帰って来たアスカは色んな意味で疲れ切っていた。遊び疲れでもあっただろうし、カヲルとここまで帰って来たせいでもあった。全く、紳士なんて言葉はつまらない幻想でしかなかったのかもしれないとまで考え始める始末だ。それはシンジがレイに対して行う紳士らしさだから、意味があるのであって、カヲルがアスカにしてのけたところで到底意味をなさないのだ。でも、とアスカは思った。カヲルだってあの父の息子なんだから、才能はあるんだろうと。
立ち止まって木を見上げたり、咲いている花を見たりしているうちに二人の帰りはずいぶん遅れたようだった。家に帰ると、レイとシンジはそろってお茶を飲んでいる真っ最中だった。あら、とそんな二人の様子にアスカはつまらない後悔をした。もっと粘っておけば良かったと!加持は少し気になることがあるといってまた畑に戻ったらしかった。ミサトはリツコのところに遊びに行っていた。
「アスカと渚くんの分も入れておいたよ」とシンジは戻って来た二人を見ると、嬉しそうに出迎えた。何よ、とアスカはふてくされたことを考えながら、椅子に腰掛けると、置かれていたお茶を一気に飲み干した。それにしても、シンジがもっとレイと二人きりでいるのを楽しんでくれるようにならなくては、プロポーズの道のりまでまだまだ遠いというわけだ。これじゃあ、大学に入学する前になんてまだまだ無理があるかもしれない。
カヲルは、アスカが内心がっかりしているのをうすうす感じ取っていた。で、シンジが入れてくれたお茶を礼儀程度にいただくなり、張り切った口調で言う。
「惣流さん、さっき何かの本を見せてくれるって言ってなかったっけ?」
「は、本?何が?」
この狂人はまた何を言ってんだか、という表情でカヲルを見やるなり、アスカはすぐさまその意味を理解した。
「ああ、そうだったわね!忘れてたわ、ちょっと来て」
アスカは張り切って叫ぶと、カヲルを連れてどたどたと二階に上がっていった。自分の部屋に向かいながら、楽しそうながらも声量を落とすと珍しくカヲルを褒めた。
「さっきのはなかなか良かったわ!あんたにしてはやるじゃないの」
するとカヲルはははは、と笑った。
「君のお褒めに預かれるなんて光栄だな。君が僕を褒めてくれるなんてそうそうあることじゃないし」
「まあ、そんなことないわ。あたしは褒めるべき時は褒めてるもの。あんたに褒められるようなとこがあんまりないってだけよ」
それはそれできつい言い方だったが、カヲルはそうしたアスカのものの言い方をちゃんとわきまえているので怒ったりはしないのだ。
「まだまだ発展途上だからね。まあ、君が期待する通りの男じゃないことは認めるよ」
「発展途上ねえ」
いぶかしむように呟きながら、アスカは自室の部屋のドアを開けるとカヲルを入れてやった。小さな部屋だったが、アスカの趣味が詰め込まれ、壁には雑誌から切り取った写真などが貼り付けられたり、戸棚には可愛らしく造花を飾ったりと手の込んだ様子を伺わせた。小さな本棚にはアスカが集めて大切に何度も読んで来た本が並べられている。入るとすぐ目に飛び込んで来るベッドは薄いピンク色のバラの模様のカバーがかけられ、そのすぐ上には大きな窓があった。太陽の光と共に目が覚めるというわけだ。カヲルはそんな部屋の様子を眺めながら、そういえば以前にもここに来たことがあったのを思い出していた。
「三十分くらい時間つぶせば良いかしら・・・。とりあえずその辺座ったら?」
勧められるがままにカヲルは、ベッドに腰掛けた。
「前に来たのはお見舞いだったね」とカヲルが笑いながら言うと、アスカははっとなった。そういえば、そんなこともあったっけ。
「あんたに「マンスフィールドパーク」を大いにバカにされたんだわ!」と思わず叫んで、腹立たしげにカヲルを睨みつける。
「そんなに怒らなくても良いじゃないか。それに、バカにしたんじゃないよ。ただ、夢物語って言っただけでさ」
「十分バカにしてるように聞こえるじゃないの!」
かりかりしながらアスカは言って、カヲルの隣りに腰を下ろした。それからふと、男の子と部屋で二人っきりなんて何たる気まずさだろうと思い、他に座るところを探した。勉強机しかなかったが、それでも良いとばかりに立ち上がると、改めてそっちに腰を下ろす。カヲルはそんなアスカの内心を分かっているのか、アスカの行動の不審さについて何も言わなかった。
「結局、あの時何で学校休んだんだい?」
カヲルに無邪気な口調で聞かれるとアスカは赤くなった。筋肉痛!なかなか忘れられない記憶というのは忌々しいものだ。そんなアスカの反応に、カヲルはますます理由を知りたくなった。もうどうせ過去のことなんだし、とアスカは割り切って教えてやることにする。
「加持さんのお手伝いしたの。そしたら、・・・き、筋肉痛になって動けなくなったのよ。バカにすれば良いわ!あたしだって必死だったんだから」
カヲルは目をぱちくりさせてから、真剣な顔で答える。
「バカになんかしないさ。あれだけの運動量をこなすのは実際大変だと思うし、君のことだからすごく必死になったんだろうね」
「・・・バカにしてくれる方が良いのよ」とアスカはカヲルの優しい物言いが気恥ずかしくてたまらず、そう呈さずにはいられなかった。
「人の努力はバカに出来るものじゃないのさ」とカヲルはすまし顔で答えた。
「あの時、農家のお嫁さんになるのが遠のくのを感じたけど、でもまだ諦めたわけじゃないのよ。ほどほどに農業を手伝う傍ら、小説を書くって手もあるもの。もちろん、家事だってちゃんとするわ」
「君にはそんな素晴らしい夢があるんだから、どんな相手が夫になろうと良いじゃないか。それに君は、愛する人を職業で決めるのかい?好きになった人が例えば漁師や何かだったとしたら、農家の方が良いからって割り切って嫌いになれるのかい?」
カヲルにそう問いかけられたアスカはどうなんだろうと考えて、うなだれた。人を愛することに条件なんか必要なのだろうか?人を愛したことのないアスカには答えようのない問題だった。
「分かんないわ、その時になってみなくちゃ」
「前に惣流さん、言ったよね。欠点も含めて愛するのが、愛することだって。職業だって同じだと思うな。それも含めて、きっと君は愛するんだと思うよ」
そうなのだろうかとアスカは検討する。でも、カヲルの言ったことが当たっているのを認めたくなかったので、否定すべきなんだろうと考えていた。だからといって、具体的に否定する理由も見当たらない。カヲルにとって、アスカはいつまでこんな捻じ曲がった性格でい続けるのか、本人さえも先が見えずにいる次第だった。そもそも、アスカはもともと素直な性格じゃないのだ。
「あんたには、そういうことが手に取るように分かるみたいね」
アスカが言うと、カヲルは恥ずかしそうに顔をそらした。高尚な理論を展開した方が、どうしてそんな反応をするんだろうと訝る。
「自分から言い出したくせに、何恥ずかしそうにしてるんだか」
からかう口調でアスカが言うと、カヲルは苦笑いした。
「確かに、僕にはまだ分からないはずだよね。単なる推測さ。でも、経験がない僕等には推測するしかないだろ?」
「まあ、そうよね。あと、オースティンって手もあるわよ」とアスカが嬉しそうに言うと、二人は共通の教科書が登場してくれたことを素直に喜ぶかのように笑った。
「そういえば、」と突然はっとしたアスカはカヲルをじっと見つめた。今度は何だろうと思いながら、アスカが自分を見つめる瞳の完璧な美しさに、カヲルは引き込まれていた。青い瞳、どこまでも深い、神秘の色だ。
「あんたのとこのおじさまとおばさま、仲直りしたの?」
「ああ、そのことか」とカヲルは緊張して損したとがっかりしながら、頷いた。でも、そんな話題で良かったのかもしれない。二人の間にはしばしば愛情や結婚についての理論が巻き起こったが、大人になるごとにそうした話題がお互いにとって、時に際どいものであるかを感じ始めていた。それは男女を意識するようになる年頃の者たちにとっては必然的な感情の芽生えであり、二人も気づけばそうした時期にさしかかっていたというわけだ。だから、話が深くなるにしたがってお互い折れることをわきまえるようになりつつあった。それでも、アスカもカヲルも口論するのを楽しめるタイプだったので、しばしば激昂して気まずさなんか忘れてしまったが。
「おかげさまでね。結局テレビを買ったんだ。母さんは大喜びでさ、でも、どっちかっていうと父さんの方が夢中になってる気がするな」
「へえ、テレビ!うらやましいわ、映画とかたくさんやってるんでしょう?幸運にもリツコのとこにあるから不自由はしてないけど、家にあったら素敵だとは思うわ」
「僕は正直あんまり興味ないんだ。君が言うように毎日ずっと面白い映画ばかり流れてるんなら一見の価値があると思うけど、残念ながらそういうわけでもなくってね」
それから、カヲルは壁にかけられていた服を見つけると指差して言った。
「あれ、こないだ買った結婚式に着てくドレスだよね?」
「ああ、あれ。まあね。でもいまいちぱっとしないと思わない?あーあ、あたしもっとおしゃれなのが欲しかったわあ」とアスカは憂いを込めた口調で改めてがっかりした。ドレスに対する理想だったらいくらでもあったのに、と。素敵なドレスのデザインを書き留めた石盤でカヲルを殴った過去があるくらいなのだ。
「僕はどっちかっていうと、シンプルの方が好きだから、十分良いと思うけど」とカヲルは恐る恐る自分の意見を表明した。
「あんたはね。シンプルでも何でも良いんでしょうよ」
アスカからすれば、カヲルの感覚なんてそんなものでしかないというわけだ。
「一概にそういうわけでもないよ」とカヲルは否定したものの、アスカは全くどうでも良さそうだった。
「ね、それよりそこにちょっと寝転がってみて」
突然提案されたカヲルはぎょっとした――まるで寝坊したところを突然起こされたかのような表情になったので、アスカまでびっくりしてしまった。
「な、何よ!?」
「い、いや・・・、ここに寝転がるのかい?」
「そうよ」
「・・・分かったよ」
何だか妙な具合だと思いながら、カヲルは恐る恐る寝転がった。するとアスカはもうちょっと窓際によって、とカヲルに指示する。言われた通りにすると、その横に突然アスカまで横たわったものだから、驚いてどうしたら良いんだろうと真っ白い天井を必要以上に凝視した。そんなカヲルの行動を認めるかのようにアスカは始める。
「天井、光が動いて素敵じゃない?」
アスカに言われてカヲルは初めて気づいた。外の木々を風が揺らすたびに、風が影絵か何かのように映る姿が天井に映っているのだ。アスカはうっとりした口調になって更に言った。
「晴れた日に時々こうやって光が動くのを眺めてると心が落ち着いて気持ち良いのよ。風が吹いてないと駄目なんだけど」
「素晴らしいね、きれいだよ」と言ったカヲルは一体何がきれいなんだか分からなくなっていた。ただ、アスカと同じベッドに寝転がっているという今の状況が全くのところ信じられない思いだった。しゃちほこばって、ただただ、天井を走りまわす光の動きを目で追っていた。恐れ多くて、すぐ隣りで同じようにしているアスカを見やるなんて到底出来るはずがなかった。
一方、レイとシンジはとっくにお茶を飲み終え、夕食の支度に取り掛かっていた。それにしても、と二人は階下を気にしていた。アスカとカヲルは二人で部屋に閉じこもるくらい何かに熱中しているんだろうと考えていた。
「渚くんもオースティンが好きで良かったね。アスカの良い相手がいるってことになってさ」とシンジはにんじんを切りながらレイに言うのだった。
「渚くんはずいぶん読んでるみたい」とレイも納得した風だった。アスカとカヲルがまじめにオースティンについて語り合ってるのを聞くと、ちんぷんかんぷんに聞こえることがよくあった。まるで二人がレイの知らない作家について話しているように。
「それにしても、ずいぶん長いことかかってるね。二人とも何やってるんだろう?」とシンジは訝った。
「夢中になって論じ合ってるんだわ」
レイが答える。そして、いためていたたまねぎに塩と胡椒を振った。シンジはそんなレイの様子を伺いながら、気になっていたことをやっとの思いで聞いてみようと決意した。
「あのさ、そのさ・・・」とシンジが切り出すと、レイは顔を上げた。赤い瞳に見つめられて、どう聞いたら良いのかとシンジはますますしゃちほこばった。
「さっきの、何だけど」
「さっきの?」
「帰る途中で、その、綾波の手、握ったの嫌だったんじゃないかなって・・・」
シンジが真っ赤になりながら聞くと、レイは驚いたように目を丸くした。それから慌てて答える。
「そんなことないわ」
「な、なら良かったんだ。歩きにくかっただろうと思ったから、そんな変な意味じゃないんだ」とシンジが言葉を上乗せして言った。レイは、またたまねぎをいため始める。必要以上に夢中になっていためながら、そっと呟いた。
「嬉しかったわ」
だが、たまねぎをいためる盛大な音にかき消され、その声はシンジには届かなかった。
夕食が出来上がって、加持が食卓につき、ミサトがリツコを連れて帰って来ても、アスカとカヲルは現れなかった。食卓を整えながら、シンジは心配そうに階上を見やった。
「アスカと渚くんはどうしちゃったの?」とミサトに聞かれたシンジは、
「何かの本を見るって二人で部屋に行ってそれっきり降りて来ないんだ」
「・・・んー、何してんのかしら?」とミサトが楽しそうに笑った瞬間、加持が困惑した表情で立ち上がった。そんな加持の心中をミサトはとうに見抜いていた。
「親ばかはやめてよね、恥ずかしい」
「別にそういうわけじゃ・・・」
「はいはい。ちょっとわたし見てくるわ。どうせつまらないことを一生懸命言い合って、食事のことも忘れてるんでしょう」というのがミサトの見解だった。立ち上がると、少し音程の外れた鼻歌を歌いながらアスカの部屋に向かう。部屋の前に立ってみたミサトは、一瞬躊躇した。それは、何かがあったためでなく、何もないがための躊躇だった。恐ろしいまでに音がもれてこないのだ。口論しているとすれば、二人の声が飛び交っているはずなのだが。殺し合いでもして、決着がついたころあいなのだろうか?そう考えたミサトは我ながらつまらない考えだと苦笑いする。
そっとノックをしたミサトは入るわよ、と小声で宣言するとドアを開けた。真っ暗な部屋に二人はここにいないんじゃないかと思った。だが、少し目を凝らせば二人は見つかった。月明かりに照らされて見えないわけではなかったのだが、全く予期しない場所にいたので見落としていたのだ。
「・・・あらあら」とミサトは目を丸くした。一体どういういきさつでこんなことになったのかは知らないが、二人とも仲良くベッドで眠っているのである。これはもしかするとひょっとするかもしれないと考えたミサとは真っ青になり、慌てて部屋を出た。とりあえず、加持には内緒にしておくべきだろう。でも、二人を今起こすのも忍びなかった。階下の者たちにはどう言ったら良いんだろう?
それにしたって、唯一の救いは二人が狭いベッドで精一杯の距離を置いて眠っていたことである。ミサトは好奇心がみるみる膨らむのと同時に、あまりにも最近二人が仲良くなりすぎている気がして一抹の不安を感じるのだった。考えてみればあの子たちももう、高校生なのだから何があったって決しておかしくはないのだ。

